エヴァンゲリオンのゲームを思い出してしまった話

中古108円の常連たちへ捧ぐ


些細な用事で『新世紀エヴァンゲリオン』の単行本を買う必要があった。立ち読みでも済ませられたが、偶然にも用事を請け負う前から『エヴァ』のゲームに触れる機会があり、ウン年振りとなろうエヴァゲー回帰(エヴァそのものではない)が到来していたのもあって、シンクロニシティを感じた末に購入したのであった。ことわっておくが、中古108円である。ゲーム自体の感想はこちらに書いておいたので、時間を捨てても構わないという方は一読を。

『エヴァ』と見て思い出すものは四つ。
壱・自分や友人の兄の世代(30代前半)がハマっていたものである
弐・敬愛するホームページ「墓標」のエヴァゲー墓標のコーナー
参・『パチンコがアニメだらけになった理由』(安藤健二 著)序文に書かれている、
    「劇場版がよく わからなかったので、そのまま白けてしまった」というくだり。
四・スーパーロボット大戦で無理やりシナリオに絡められる脚本

これらの下に、エヴァゲーの粗末さが続く。それは面白いとは言い難く、オリジナルキャストのフルボイスとBGM(アレンジ含)、無理やりな脚本を無理して楽しむものだと自分は理解している。

『エヴァ』のリアルタイム放映時、テレビで見ていた記憶はあれど、放映時間キッカリにテレビに食いつくようなことはせず、兄が見ているのをたまに横見する程度だった。当時小学二年生くらいの子供には理解不能な内容だったし、何よりヴィジュアルがまだ受け入れられる状態ではなかった。前番組だった『ニンジャタートルズ』が終わってしまったことがショックだったくらいだ。
テレビや雑誌でのメディアミックスもほぼ無視していたまま小学校高学年になると、新しく出来た友人の家で多数のゲーム機に触れる機会が増えた。そこに友人の兄が所持していたエヴァゲーがズラリと並んでいたのである。一体どんなものなのか眺める程度には起動していた記憶がある。放映当時はセガがスポンサーだったため、セガサターンでも多くのエヴァゲーがリリースされていたが、ひたすら一枚絵を集めるだけのファン以外お断りな内容で呆れることが多かったことも覚えている。
ゲームの体を成していると最初に思ったのは『鋼鉄のガールフレンド』で、これは10年近く前に自分が作っていたミニコミまたはフリーペーパーにもその記憶を綴っている。所持している人は劇中に登場する使徒の数よりも少ないと思うが、是非読んでいただきたい。報告は不要です。

そこから少し時を重ねての中学生時代。目にするもの、手に取るものを自分なりのふるいにかけて選ぶようになった年頃に、ようやく『エヴァ』本編を見る。が、旧劇場版までちゃんと見たにもかかわらず、全く意味が分からない。混乱したままエヴァゲーの中古に再び手を出して、苦痛とも言える『鋼鉄のガールフレンド』などを遊ぶ。シナリオの温度差に面食らい、「あっちは何故あんな終わり方にしたのか、こっちは何故こんなゲームにしたのか」と更に頭を抱えての悪循環であった。情報量だけは多かったことで印象に残っている旧劇場版の陰を引きずった自分は、漫画版や90年代後半に大量に出版された「解析本」を読んだりもした。邪推とこじつけのゲームにまだ慣れていなかった自分は、ここでも付いていけずに脱落。『エヴァ』自体から距離をとりつつあった。しかし、記憶が薄れつつある頃に『スーパーロボット大戦』をプレーしたことから、自分にとって『エヴァ』の立ち位置は大きく上昇することになる。最初の出会いは『F』。今思うと、なんであんなゲームを遊んでいたのかと自分で驚くバランスを持ち、「戦闘シーンスキップ不可」という仕様が再プレーを阻んでくれるタイトルだ。シナリオを要点だけ抽出しては、他作品との(正直望まれぬ)クロスオーバー込みで明快なシナリオにしてくれていた。本編を見ても「?」の連続だった自分でも、ここでねつ造込とはいえシナリオに追いつくことが出来たのだ。『F』はその難易度からもすぐに投げてしまったのだが、少し間をあけて『α』に着手した。これはリアルタイムで発売に直面しつつも、兄が遊んでいた横で見ていただけで放置していたタイトルであり、広告もよく見かけた記憶がある。ゲームバランスはグッとマシになり、サクサク進めて気持ち良かった。スパロボを純粋に楽しんでいた僅かな時期の想い出である。『F』以上にシナリオの根幹に関わっている『エヴァ』は、丁寧に第壱話から旧劇場版をなぞっており、本編と併せることで補完することが出来た。「静止した闇の中で」に登場した使徒など、今ではオミットされて当たり前のマニアックな敵キャラが出ているのがたまらない。あとリーンホースJr.で使徒を倒すブライト。

 スパロボのおかげで『エヴァ』のシナリオを大体把握できた。改めて旧劇場版を見直す。ああ、スパロボで見たあのシーン・・・全然再現されてないじゃん、ねつ造じゃん・・・。本来は逆なのだろうが、自分にとってはこんな楽しみ方をしていたのであった。調子に乗って他作品でも同じようなことを試すのだが、あまりいい思い出はなかった。時間の無駄だったと胸を張って言える。
正直、『スパロボ』と『エヴァ』については別枠でみっちり書きたいくらいである。こんなことならば、発売当時に発表しておくべきだった。
『スパロボ』があんなに頑張っているのに、何故本家のエヴァゲーはコンセプトの時点で破綻したり、ゲームバランスとシナリオが穴だらけなのだろう。唯一許せるというか、受け入れられる世界観のタイトルが『エヴァと愉快な仲間たち』であった。これは何故かガイナックスのキャラクターが総出で麻雀をするというストーリーになっている。麻雀を知らないまま遊んだ自分だが、ルールよりもテレビ版最終話のような雰囲気に疑問を持つ一方であった。この作品のおかげで『ナディア』を知った人も多いと思う。『トップをねらえ!』は当然『スパロボ』経由ですお姉さま。
ニンテンドー64で出たアクションものはオリジナルを忠実になぞったもので、正直遊ぶならこれが一番無難なのではないかと思う。リリースされたことが不自然でない数少ないエヴァゲーにも数えられる。

中学3年生から高校に入っての3年間は人生で最もゲームに狂っていた時期であり、ク■ゲーの烙印を押されがちなエヴァゲーも喜んで食べては、吐き出していた(これに並んでガッついてたのが水木しげる関連のゲームである)。
原作との比較が出来るようになったほか、重箱の隅をつつく技術と心地良さを覚えていたため、ゲーム界のモンドとして愛でていた日が続いていた。ある日『綾波レイ育成計画』といったシミュレーションものが登場したが、これらは例外でほぼノータッチだった。理由はPCでの発表が主だったのでスペックと価格的な意味で手が出なかったのだ。一部はドリームキャストでも出ていたが、こちらも実際に触ったことはない。育成計画という字面は明らかにそれまでのエヴァゲーと異なる分野に足を踏み入れており、率直に言うとエロゲーの香りがしたので、まだ警戒心のようなものを抱いてた自分は本能的に避けていたのだろう。その派生である『碇シンジ育成計画』は友人を介して遊ばせてもらったが、分別が付く頃に遊んでおいて助かったと心の底から思うゲームである。ハマらなくてよかった。実はキャラクター自体にもそれ程愛着がないせいか、この密着型ゲームにはあまり反応できなかったのが正直なところであった。運が良かったのか悪かったのかはわからない。今なら動画サイトでまとめられたものを見て楽しむことが出来る。良き時代だ。00年以降に出たエヴァゲーは声優の声自体にやや変化が出始めており、良くも悪くも新鮮なままでパッケージされているオリジナルや、それに近い『スパロボα』とのギャップが気になったのもノれなかった理由の一つだろう。・・・そこまで気にするということは、それなりにファンだったのかもしれない。
00年代のエヴァゲーは、それまで以上にユーザビリティというか、ゲームとして成り立たせようという気概がゼロだと思えるものばかりだった。PS2時代後半になってからリリースされたものは、ゲーム性よりもコンセプトで勝負する出オチなタイトルだらけで、自分がエヴァゲーにかねてから抱いていたイメージはここで完全に固定されてしまった。つまりクソ■ーの海である。それを象徴するのがブロッコリーによる、気が狂ったとしか思えない一連の作品で、『名探偵エヴァンゲリオン』、『バトルオーケストラ』などタイトルから闇一色のシロモノに満ちている。中古価格の暴落が早すぎることで共通していたのもあって、どれも一周くらいなら遊んでしまったのが恐ろしい。90年代のエヴァゲーや近年の『スパロボ』と同じで、「あのキャラがこんなセリフを・・・」という楽しみ方くらいしか出来ないのだが、『名探偵』では『逆転裁判』を堂々とパクっていたので、ここも驚いた。
唯一まともな内容だったのは『新世紀エヴァンゲリオン2』で、これはストーリーが多数用意されていることがウリのタイトルだった。「もし旧劇場版以外のラストがあるのなら」という触れ込みで、キャラクターによって多数のエンディング分岐が用意されている。PSP版はより快適になっているとのことだが、自分はもうやり直す気力はない。なお、まともとはブロッコリーの諸作と比べての話である。

時間を空けて登場したリズムゲーム、『サウンドインパクト』はハードの進化もあって美麗な映像がそのままパッケージされるなど、昔のエヴァゲーではありえなかったサービス精神に満ちていた。が、それが肝心のゲーム部分の粗を露出させてしまうという皮肉な形に着地していた。『鋼鉄のガールフレンド2』というリメイクも出ていたが、使い回しと改善されぬUIというエヴァゲーの基本をしっかり守っており、これも手遅れだった。何故作ったのか、イマイチ理由がわからない新劇場版の公開もあり、自分の中でエヴァゲー、そして『エヴァ』が終わっていたことを突きつけられているような気がした。更に時間を空けて2010年代に入ると、今度は漫画版が完結するという出来事もあったが、「まだやってたの?」というのが率直な感想だったし、終わらせ方も旧劇場版をなぞっていたものなので、新劇場版の立ち位置がますますあやふやになってしまった。ここに辿り着くまでに『エヴァ』に影響を与えた、またはエヴァから影響を受けた作品を嫌というほど浴びてしまったのもあって、何の感動もなかったのが実情である。直撃世代、例えば自分の兄のような世代は思い入れもあるのか、新劇場版が作られる前から軽いリバイバルを迎えていた印象がある。それは殆どパチンコだったりするのだが、とにかく多方面から『エヴァ』をノスタルジックに消費していた人は多く感じた。そして自分にはそれも叶わなかった。ブロッコリーのゲームじゃ無理だ。

『エヴァ』本編そのものにあまり愛着がない自分だったが、他人との会話に『エヴァ』が挙がる度、オリジナルとエヴァゲーの危ういバランスからノスタルジーを見出しているのではないかと感じ始めた。他人には伝わりにくいだろうが、『エヴァ』やエヴァゲーの持つ曖昧な感触に包まれていた、あの時間が恋しいのかもしれない(=昔はよかった、ではない)。
旧劇場版ラストでアスカが呟く「気持ち悪い」は何なのか?『エヴァと愉快な仲間たち』で、シンジが麻雀大会を当たり前のように受け入れ参加するのは何故なのか?これらは自分の中で同じレベルの疑問であり続け、ここから『ゲーム批評』などで見かけた感想文レベルの雑文を捻り出し、版権モノのイラストを描く口実を作る。長い時間が経とうとも『エヴァ』はその機会を与えてくれる稀有な存在である。強調するが、それほど好きではない。だが忘れられない作品なのである。この話は忘れてください。

(16.6/27)